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神楽岡碑(上川離宮予定地)

住所 旭川市神楽岡公園内上川神社

旭川の由来は、アイヌ語で忠別川「チュプ・ペッ」(日・川)の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳した。
神楽岡と言う地名の由来は、アイヌ語の「ナエオサニ」、「ナヨサニ」、または、「ヘッツイウシ」、「ヘツチエウシ」と呼ばれていたのが変化したもの。
国道237号線から道道219号新開旭川線に進み約600mほどの上川神社駐車場に右折し、100mほど。そこから境内に入ると天満宮横にある。
1885(明治18)年、北海道内陸部開発に熱意を抱く司法大輔岩村通俊は近文山から広大な上川原野を見渡した。国見の碑として現在も碑がある。
現在の神楽岡の丘陵を離宮造営地として陳情、明治政府はこれらを受けて離宮設置は閣議決定に至る事となる。
ところが北海道の中心地を旭川に奪われると危惧した札幌・小樽の猛反対に合い、「一都府を立て離宮を設置すべし」との政府宣達により世伝御料地編入まで施された上川離宮建設計画は、その後、札幌で大火があり、復興が進んでないうえ、日清戦争が始まったこともあり、うやむやにされてしまう事となる・・・。
1911(明治44)年、皇太子嘉仁親王殿下(大正天皇)本道行啓の際、この岡に登られ上川の平野をご展望になられて、御休憩、御昼さんを召されたのを最後に、1913(大正2)年、12月19日丘陵地の公園を建設するため、上川離宮予定地であった神楽岡の御料林を調査する。
1914(大正3)年、4月帝室林野局から御料林のうち14万1300坪を借用し、同年4月4日神楽岡公園として開園し、1921(大正10)年、世伝御料地は解除され普通御料地に編入になり、上川離宮の願いは消えた。
上川神社が神楽岡に鎮座したのは、1924(大正13)年6月6日神々が鎮まる適地として、かつて上川離宮建設が決定された神楽岡に神社を移した。
この上川神社の拝殿手前には旭川天満宮があり、その横に二基の碑がある。
右手の4mほどの碑が神楽岡碑で、仙台石の碑面に元宮内大臣一木喜徳郎の題額と北海道庁長官池田秀雄撰の碑文が柴田直胤宮司の手で記されている。
1889(明治22)年、神楽岡が離宮予定地となり、翌年付近一帯が御料地として編入され、1911(明治44)年9月大正天皇が皇太子の折行啓のこと、1924(大正13)年の上川神社の移遷のことなどが碑文に刻まれているそうだ。1933(昭和8)年11月に建立された。

神楽岡の碑と並んで立つ左手の碑は、高さ3.6mの仙台石、本来は神楽岡碑の副碑として1933(昭和8)年11月に建立された。
碑の建設関係者名が刻まれているが、碑面上部には「上川の清き流れに 身をそそぎ 神楽の岡に 幸行仰がん」と永山武四郎の歌が息子である武敏の揮毫で刻まれている。
上川開発の施策を進めていた永山武四郎は、1889(明治22)年9月神楽岡に登り「上川の清き流れに 身をそそぎ 神楽の岡に 幸行仰がん」「畏みし 神のまします位山 民仰ぐべき 御幸をぞまつ」と詠み、手書きされた自筆の二首は、上川神社社宝として伝えられている。
ちなみに上川神社は、金運上昇パワースポットとして有名で、芸能人が多く訪れる神社として、また商売人が多く訪れる神社の代名詞的存在でもあり、年間の参拝者が多い神社でもある。


敦賀谷夢楽 川柳碑
「陽の露のめぐみ柳の芽が育ち」
ちょうど予定地碑の裏にあり、目立ちませんがひっそりと立っている。


ナエオサニとは、1890(明治23)年、上川離宮建設調査書に「上川離宮造営予定地は、上川郡字ナエオサニをもって適当となす」とある。
ナエオサニの地たるチュプベツ、ビエイの両川にはさまれたる一小丘にして、高さおよそ110尺、老樹うっそう、その東北は絶壁にしてチュプベツ川その前に横たわる」とある。
ナヨサニと言う地名は、北海道庁所蔵の1898(明治31)年版陸地測量部の地図に記されていて、ナエオサニとナヨサニは、「沢が・そこへ・出てくる所」。つまり沢の出口の意であり、ヘッチエウシは、ヘッツイウシが転化したもので、ヘイは歌を聞いて、はやす声であり、「はやし・つけている・場所」で、ヘッチエは、歌舞にあわせて「ヘイツ、ヘイツ」とはやすことであるという。
このように神楽岡の地名は、アイヌ語からこれを意訳して生まれたという。

永山武四郎(ながやまたけしろう)とは、1837(天保8)年4月24日(5月28日) - 1904(明治37)年5月27日、日本の陸軍軍人で、明治時代に北海道庁長官、第7師団長、貴族院議員等を歴任する。官位は陸軍中将従二位勲一等男爵。
鹿児島藩士、永山盛広の四男として生まれ、同じ藩士の永山喜八郎の養子となる。
戊辰戦争に従軍し、維新後の1871(明治4)年7月、陸軍大尉・2番大隊付に任命される。
1872(明治5)年、9月から北海道開拓使八等出仕となる。
1877(明治10)年、4月に屯田兵第1大隊長に就任後、西南戦争に従軍する。戦争から帰還し屯田兵大佐となる。
1888(明治21)年、6月から第2代北海道庁長官を兼ねる。
1889(明治22)年、8月屯田兵司令官に就任。
1895(明治28)年、2月臨時第7師団司令官となり、同年12月4日、男爵に叙される。
1896(明治29)年、5月第7師団師団長に正式に就任する。同年10月、陸軍中将に進級し1900(明治33)年、4月まで務めた。
北海道庁長官となった武四郎は、北海道でも特に内陸部の開発に着目していた。
岩村通俊と共に上川原野を視察し、国見を行ったことでも有名で屯田兵村を設置するが、この村は1890(明治23)年、永山村と名前を変える。

敦賀谷夢楽(つるがやむらく)とは、1886(明治19)年8月19日 - 1955(昭和30)年6月3日)、川柳団体創始者。日本川柳協会旭川支部長。
本名・謙治郎、江差町出身
1915(大正4)年、旭川で司法書士を開業。
1916(大正5)年、旭川最初の川柳団体「熊(おやじ)会」結成に参加。
1936(昭和11)年、「川柳あさひ会」を経て、「旭川川柳社」を創立、主幹となり「川柳あさひ」を発刊する。
1941(昭和16)年、日本川柳協会旭川支部長。
1950(昭和25)年、3月柳誌の復刊を果たし、北海日日新聞、北海道新聞などの柳壇選者となる。
1956(昭和31)年6月、夢楽の一周忌にあたり、北海道初の川柳碑として現在地に建てられた。

国道237号とは、旭川市から浦河郡浦河町に至る一般国道で、総距離は259.6km。

道道219号新開旭川線とは、旭川市内を通る一般道道で、総距離は9.5km。

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