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にしん文化歴史公園

住所 留萌郡小平町字鬼鹿広富

小平町

小平町は留萌郡に属し、語源はアイヌ語のオピラシペツ(河口に・崖・ある・川)で、小平蘂川の名に由来する。
鬼鹿の由来は、アイヌ語の「オ・ニウシ・カ・ペツ」(川下の森を流れる川)に由来する。
国道232号線沿いにあり、道の駅 おびら鰊番屋旧花田家番屋の、国道をはさんで海側には、夕日をイメージして作られたアーチ型のモニュメントがあり、幕末の探検家で北海道の名付け親、松浦武四郎翁の銅像が設置され、詩に残している。
「名にも似ずすがたやさしき女郎花なまめき立てるおにしかの里」が刻まれている。(西蝦夷日誌に記述がある)


松浦武四郎の銅像の横には、新明紫明の句碑「こころよき ものに 直線 燕来る 紫明」がある。
ここからは、離島焼尻、天売が天気のいい日には眺めることができ、利尻山も見ることができる。
ちなみに句碑の写真の右側に利尻山がぼんやり見えています。


小平町 にしん街道標柱
にしんルネサンス

にしんルネサンスでは、往時の繁栄時代のにしん文化を蘇らせネットワークで結び、新たな観光ルートの確立など、日本海沿岸市町村を通るルートを『にしん街道』と命名し、各市町村に標柱を設置することになった。
松前町から稚内市までの総延長約700kmを結ぶ街道は、国内最大の長さを誇り、2004(平成16)年、松前町から始まった 「 にしん街道標柱設置事業 」 が、江差・小樽などを経て、2012(平成24)年、9月小平町にしん文化歴史公園内に設置された。

にしん街道は、北海道の松前町から稚内市までの日本海沿岸約700kmの道のりの事、そこには「 にしん番屋 」に象徴される数多くの遺跡や文化財が点在しているのである。
当時、北海道日本海沿岸市町村では、江戸時代から「ニシン」による繁栄という共通の文化を有し、日本海の市町村を繋ぐ道として標柱の設置が進められている。
1897(明治30)年、にしん漁最盛期には、97万3000トンの史上最高を記録しているほどで、ニシン漁は北海道の漁業総生産額の7割を占めるほど盛んだった。
多くの廻船問屋や商家、土蔵が建ち並ぶなど、ニシン漁で財を成した漁師による「ニシン御殿」が建ち並んだ。
日本海沿岸市町村には、現在もこれらを象徴する歴史的建造物や郷土芸能など、有・無形の文化財が数多く残され、一部の地域では資料館として開放している。
1906(明治39)年、このころからニシン漁不漁期に入り豊漁の年と凶漁の年があり、1955(昭和30)年以降、日本国内での水揚量は、100tにまで激減してロシアやカナダからの輸入品が大半を占めるようになった。
激減の原因として挙げられるのが、乱獲、森林破壊など諸説があるが、日本の場合は乱獲が主要の原因だと見られる。



説明版
 ここ小平町は、江戸時代後期から昭和30年代に至るまで「にしん漁」
で栄えた町です。
「にしん」は身欠き鰊や数の子として食用とされ、これらは京都の「に
しんそば」や東北地方の「数のこ豆」や「鰊の山椒漬」など全国各地に鰊
食文化を育みました。しかし、多くは「〆粕」に加工され、江戸から明治
時代を代表する肥料として本州へ移出され、木綿や藍などの商品作物の生
産を伸ばして私たち日本人の生活を豊かにし、稲作や畑作に広く使用され
私たちの食を支えていったのです。
 小平町でにしん漁がおこなわれたのは鬼鹿地区と臼谷地区。
鬼鹿地区には、現存する鰊番屋では最大の規模となる国指定重要文化財
「旧花田家番屋」があり、経営者である親方家族の住居であると同時に、
最盛期二〇〇名を越える漁夫や職人が寝泊りする漁場の拠点となった施
設で、明治三八年(一八〇五)頃建築の代表的なにしん漁遺産です。
 さらに、明治三四年(一九〇一)瀧川弁蔵氏によって小樽から「松前神楽」
が伝えられ、道南から当地鬼鹿へ来住した漁夫達によって盛んに演じられ、
今も鬼鹿松前神楽保存会によって小平町無形文化財として脈々と受け継が
れています。
 臼谷地区には、享保二一年(一七三六)村山伝兵衛と施主銘がある小平町
有形文化財「臼谷弁財天碑」があり、場所請負人として蝦夷地各地の漁場
経営を担い、当時富商として全国的に知られた村山伝兵衛のこの地での活
動を明らかにしています。
 江戸・明治・大正・昭和の長きにわたり、広く全国に行きわたり日本人
の生活を支えた「にしん」。その「にしん」のもたらした繁栄の歴史と
「にしん文化」息づくまちを結ぶ道しるべとするとともに、新たな観光ルー
トとして確立し地域の活性化につなげるために、この「にしん街道」の
標柱を設置します。
設置月日 平成二四年九月吉日
設置者 小平町・小平町観光協会連合会

新明紫明(しんみょうしめい)とは、1928(昭和3)年 - 2006(平成18)年4月、俳人。
室蘭生まれ、本名は美仁。
1958(昭和33)年より旭川に居住。
1963(昭和38)年、勤務医をしながら「青女」創刊主宰。
1975(昭和50)年に旭川市文化奨励賞受賞する。
1996(平成8)年には句集「初霜」で北海道俳句協会の「鮫島賞」を受けている。
亡くなった後、俳句誌は廃刊になるが、2006(平成18)年8月に「青女わかくさ」として再出発している。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日、江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、「初航蝦夷日誌」を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

国道232号とは、稚内市を起点とし、留萌市を終点とする一般国道で、総距離は185.1km。

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