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農業資料館

住所 宗谷郡猿払村浜鬼志別214番地7(さるふつ公園内)
現在は閉館中

猿払村観光協会

宗谷の由来は、アイヌ語の「シヨウヤ」(海獣の止まる磯の丘)この磯の丘にアイヌコタンがあったことから地名にした。他にも、宗谷岬の北にある弁天島は「ソーヤシュマ」(岩礁の海岸にある島)と呼ばれていた。また、「ソ(ショ)・ヤ」(岩礁の多い海岸)と呼び、これらが「ソーヤ」の由来とされている。現在の宗谷は「ウエン・トマリ」(悪い・入り江)というところで、うっかり舟を入れると岩礁で舟を壊すところだった。
猿払の由来は、アイヌ語の「サロプト」(葦(芦)川口)「サラブツ」(葦(芦)原の河口)から転化した。
浜鬼志別の由来は、「オ・ニ・ウシ・ペツ」(川尻に・木が・生えている・川)、または「オ・ヌ・ウシ・ベツ」(川尻に・豊漁な川)。1924(大正13)年猿払村が宗谷村から分村し村制施行する。2001(平成13)年猿払村全域の字名を廃止し、新たな町名へ変更。
宗谷岬から国道238号線を浜頓別方向へ約31.0kmほど。浜頓別町市街地から国道238号線を宗谷岬方向へ約30.0kmほど。

風雪の塔の横にある施設、看板などが付いていないのでわかりずらい。。(現在は閉館している)

中に入ると、開拓当時の人々の暮らしぶりが一目でわかる生活用品、当時の住宅復元、サイロの模型、農機具等が展示されており、先人達の厳しい自然条件の中生きてきたドラマの一片をうかがい知ることができる貴重な資料館である動物達の剥製、乳牛への感謝とも思える品まで、小さい資料館ながら伝わるものがあります。


国道を挟んで海側には「松浦武四郎宿営の地」があり、公園内には道の駅 さるふつ公園がある。江戸時代中期頃からは場所請負制による漁場が開設されていた。江戸末期の鬼志別は小休所があり、宿泊は浜猿払なので碑がある猿払公園に武四郎が宿営したという事ではない。1846(弘化3)年は猿払の番屋が無人でアイヌ民家に宿泊する。
幕府の役人になってから1856(安政3)年8月に松浦は猿払に来ている。この時期は蚊が多かったようで昼夜問わず蚊に悩まされている様子が記されている。1858(安政5)年6月にも宿泊し「西部佐留部都誌」等を記した。竹四郎廻浦日記ではこの辺りを「イシヤンベ」と呼んでいたようである。「此所に到りてカムイト(北見神威岬)を見る」とあり、天気が良ければ神威岬が見える。
1878(明治11)年、10月宗谷郡6村設定が公示され、アイヌ語地名「サラ・プツ」に「猿払」の字が当てられ村の誕生となる。
1897(明治30)年には猿払海域に海扇(ホタテ)が生息していることがわかり、翌年には海扇漁業者が多数押し寄せ、1901(明治34)年、には知来別で石川県内灘(現・石川県河北郡内灘町)の漁業者が海扇(ホタテ)漁業を始める。この頃より入植者が増えてくる。
1903(明治36)年この頃の猿払の越冬者は7戸となる。
1909(明治42)年三菱鉱業会社小石地区に試掘鉱区を設定し、炭層調査を行う。この頃から猿払方面での炭鉱ラッシュが訪れる。
1924(大正13)年、1月宗谷村から分村し、2級町村制を施行。猿払村となる。村内を10地区に分ける。
1946(昭和21)年、2月戦災疎開外地引揚者172世帯565人となる。
1947(昭和22)年終戦後の引揚者の入植などにより、内陸地の戦後開拓がすすむ。山形県からの集団入植は村の今日の酪農業の礎となっているのである。
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